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スポーツというものは/中村 良夫 スポーツというものは、国別であれ、地域別であれ、学校別であれ、異なった人間集団の対抗意識があってこそ、人間的な共感を呼び起こして興奮するものである。「勝った!ウレシイ」「負けた!クヤシイ」「ようし今度こそ…」となるのが本質的な姿なのだろうと私は考えている。 また同様の人間的感情から、私たち日本人であっても時に「ラ・マルセイユ」に感激し、時に「星条旗よ永遠なれ」に心揺さぶられるのであって、単なる勝った・負けたという次元を通り越した「人間ドラマ」に感動し共感するのである。 従って、ナショナリズムが消滅に近いまで圧縮され、単にお金を稼ぐためのコマーシャリズムが大幅に闊歩している現在のF-1グランプリはいずれにせよそんなに長く生息できるわけはなく、消えていってしまうか、新しい組織になるかのどちらかであろうと思う。 「金がホントになければ何もできないけれど、逆に金がありあまればその金によってすべてが死滅してしまうのが人の世の常であろう。」 日本では、正確な意味での四輪レース・プロフェッショナルが生きていけない /1969年9月 田中 健二郎 若い人たちに何らかの意味で参考になれば幸いだ。 今の日本の四輪レース・ドライバーで、正確な意味でプロといえる人間はいない、と私は思う。 国光や北野にしたって、今は契約金と嘱託料の2本立てで、月給制になっているが、月給をもらうプロなんているはずがない。勝たなければ食っていけないんだという、きびしさがなければいけない。 「日本では、正確な意味での四輪レース・プロフェッショナルが生きていけない」のだ。だから、生沢がイギリスにいってしまった。そういう意味で、今の日本で、本当のプロフェッショナルというのは、生沢1人だし、あいつもイギリスでプロ根性を仕込んでくることだろう。 プロ選手への3つの条件 よく私のところに、プロ選手になりたい、という手紙が舞いこむ。私は大いに結構、やりなさい、と返事することにしている。ただし、3つの条件がある。第一はカネがあるのか?第二に家族の了解はとってあるのか?もし、レース・ドライバーとして大成しなくとも後悔しないだけのいい訳があるのか?最後の条件は、やり始めたら、なれるだろうかなどということは考えるひまのないほどに、それになるべく努力しなさい、ということだ。こういう返事をだすとその人間はたいてい二度と手紙がこない。 自動車のレースとは/生沢 徹 自動車のレースとはテクニックとテクニックで優劣を競うものと確信していた。 ドライビング・テクニックとは、安全かつ速くクルマをコントロールすることをいうのであって、それは常に「自分を見失わず」、その「状況を的確に判断」し、最善のテクニックで対応することである。だからどんな「トラブル・アクシデント」にみまわれようと、「あわてずに行動できる」かどうか、このようなドライビングをすることが重要となってくるわけである。 クルマをおりれば人格円満な正常人なのに、いったんハンドルを握ると別人。あたりかまわず強引に割り込んできたりあおってみたりで、まるでジキルとハイドを思わせる走りっぷり…。こういう欠陥ドライバーはもちろんトップのレーシング・ドライバーにはなれない。「カッカ」したら、レースは必ず負けるのだから。 要はレーサーの育て方であろう/1967年5月3日 三船 敏郎 育て方いかんでは、近い将来日本人も世界のグランプリ・レースに参加出来る可能性がある。他のスポーツもそうであるが、ある種の「商業主義」や「セクト主義」でレーサーを抱え込んだりせず、オーガナイズされた中でたとえその道は厳しくとも、世界的なレーサーを育ててもらいたいものである。 第4回日本GPでも、ポルシェ対日産とか、トヨタ対ホンダ、個人エントリーうんぬんということよりも、もっと広い視野のもとで、人間機械の複雑なからくりを近代化していくことである。 |